Editor’s Discovery~目指すのは、人に喜んでもらえる酒造り。新市場創出に挑み、日本酒業界の光になる。~

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2019.01.07
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日本には、より良い未来の実現のため、伝統を守り継ぐ一方、強い想いを持って新たな取り組みに挑む中小・ベンチャー企業が存在します。「中小・ベンチャー企業が咲き誇る国へ。」をミッションに掲げるソウルドアウト株式会社では、そんな企業を応援したいと考えています。「Editor’s Discover」のコーナーでは、SOUL of Soldout編集部が実際に企業を訪れ、挑戦のストーリーをお伝えします。今回は、新潟市で約250年続く酒造りを行う、今代司酒造さんに伺いました。

佐藤 嘉久(さとう よしひさ)
今代司酒造株式会社 営業部長 兼 広報部長
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佐藤 嘉久(さとう よしひさ)
新潟県三条市出身。横浜の大学を卒業後、大手ブライダル企業でウェディングプランナー、支配人に従事した後、Webベンチャー企業で新規メディア事業、大手商業施設のWebマーケティング事業を経て、今代司酒造に入社。現在、営業部長兼広報部長として全国を担当。

創業当時のサービス精神を継承

今代司酒造

今代司酒造

畠中:今代司酒造様は、江戸時代から約250年続いているとお伺いしています。創業時からどのような変遷をたどってこられたのでしょうか。

佐藤1767年の創業当時は、ここから車で10分くらいの所にある、「日本三大花街」の一つに数えられた「古町(ふるまち)」で商売を営んでいました。古町は老舗の料亭がひしめく、いわゆる「おもてなしの街」。そこで創業当初は旅館業や酒の卸業など、サービス業を営んでいたんです。

酒造りを始めたのは、今からおよそ120年前の明治中期。それまでおもてなしを軸に商売をしていたところから、自ら酒造りを行う清酒製造業に移行。また、同じタイミングで、現在の場所に移動してきました。ここは、かつて阿賀野川の支流である栗ノ木川が近くに流れていた地域であり、新潟港に近いこともあって、ものの集積地だったんです。酒蔵以外にも醤油蔵や味噌蔵、納豆蔵など多くの発酵食が栄えた地域でした。

酒造りを始めてからは、花街の料亭などを中心に、造ったお酒を卸していたそうです。料亭の方は、味に厳しいいわゆる職人肌の方が多いので、料亭に味を鍛えていただき共に成長してきたという歴史があります。

今代司酒造

今代司酒造

畠中:長い歴史を積み上げて来られたんですね。酒造りにおいて、当時から大事にされていることはありますか。

佐藤:当時の思いは継承していきたいと思っていますね。一昔前ですが、今ほど規則が厳しくなかった時代には、水で薄めた酒が当たり前だった時代もあったんです。薄めることで、酒蔵は利益を得ることができ、またさらに酒屋も水で薄めて売ることができていたんですね。そんな中、今代司の酒は造った酒を薄めずに出荷していました。それが酒屋にも地元にも喜ばれ、愛されたそうです。当時から、「美味しいものを届けたい」という思いだけに集中して酒造りをしていた。人に喜んで欲しいというサービス業の精神を、持ち続けていたと思うんです。だから私たちも、人を喜ばせること、美味しい酒造りにはこだわりを持っています。

こうして現在の酒造りに至りますが、他の大きなブランド力のある酒蔵とは競うことを意識するのではなく、独自のコンセプトを守りながら酒造りをしています。コンセプトは「むすぶ酒」。味はもちろん、多くの人に喜んでもらうために、「日本酒を楽しむ場づくり」にも力を入れています。

今代司酒造

例えば、駅から徒歩圏内にある立地を生かし、蔵をオープンにしています。酒蔵は設備面であったり、つくりに集中したりと、いろいろな理由で閉ざしている蔵も多く、それは極当たり前のことではあるのですが、私たちは実際につくりの現場であったり、敷地内を逆に見てもらうことで日本酒の魅力に触れてもらおうと多くの見学を受け入れています。受け入れには体力も必要ですが(笑)、実際に来て見てもらい、自ら新しい異文化体験をすることで、ファンになってくれる人も多いですからね。また、全国で試飲販売会を開催するなど、ファンの方と交流する場もできる限り設けています。全国の日本酒ファンや日本酒に興味を持ち始めた方々と一緒に成長できる場を作りたいと思っています。

父のものづくりへの姿勢に共鳴、農業支援の道へ

今代司酒造

畠中:佐藤さんご自身は、大学卒業後ブライダル業界に就職し、IT業界を経て酒蔵に入られたとお聞きしました。異色の経歴だと感じましたが、どうやってキャリアを選択して来られたのですか。

佐藤私は長年部活でサッカーをしていて、試合に勝っても負けても、一生懸命何かをやったときに感動があることを強く感じていました。仕事も感動をキーワードに探した結果、結婚式にたどり着いたんです。一生に一度しかない強い思いが詰まった空間を作るのはすごく楽しかったし、人を感動させ喜ばせるという仕事にやりがいを感じていました。

そんなある日、実家に帰って米農家をしている父と語る機会がありました。父は頑固でよく喧嘩していましたし、農業も汚い・臭い・きついが揃った3Kの仕事だと思って、関わらないようにしていたんです。でもその日、仕事をする一人の人間として父と接したら、新しい発見がありました。父は、米作りに対する「好き」の度合いがものすごかった。

例えば、普通稲を刈ったあとは皆休んでいるのに、一人田んぼで土を耕している。一人で米の研究をして、「この土作りがないといい米できないんだ」って雪が降るまで続けるんですよ。人が面倒でやりたくないと思う作業をとことん大事にする姿勢が、私自身が仕事で大事にしていることと重なったんです。衝撃的でしたね。そのとき初めて、農業は大事にしなければいけない産業だと感じました。

父を、農業を応援したいと感じて、自分にできる関わり方を模索しました。ものづくりにはまだ関われないと感じましたが、ものを売る支援ならできるのではないかと思いました。そこで、まずIT業界に転職し、発信力が高いWebについて学びました。

ある程度知識と技術が身についたころ、父の近くでサポートしようと帰郷を考えました。「米自体をどれだけ大事にできるか」を基準に、米に関われる仕事を探しましたね。そこで面白いなと思ったのが酒蔵でした。酒造りについて調べると、その年の米の出来不出来で味が変わる、繊細な産業だということがわかったんです。折良く今代司酒造の求人の募集が出ており、入社できることになりました。蔵の酒も、地元では多少飲まれていましたが、全国的にはほとんど地名度がなかったため、広く世間に知ってもらうと動き始めたタイミングだったみたいです。

入ってみると、ベンチャー気質がすごかったですね。他がやってない、新しいものを作ろうとする気風がありました。私はそういう感じが好きだったので、違和感なく溶け込むことができました。

今代司酒造

蔵人(くらびと)に誇りを取り戻した「錦鯉」

今代司酒造

畠中:蔵に入ってからは、どんな取り組みをされたのですか。

佐藤:私が蔵に入る数年前は、酒蔵は存続が難しい状況に追い込まれていました。良い酒を作っても売れない、価格も上がらない。売上が上がらないので給料も上がらない。いい仕事をしても報われないので、製造の方々が、自信やより良いものを作ろうという気概を無くしていたと聞いています。新たな経営者や、先人の多大な努力で、業績は上向いてきているタイミングでしたが、酒造業も農業と同じ衰退産業。もっともっとこの業界を盛り上げたいと思いました。

そこで、私自身は今代司の酒を全国のマーケットに持っていくという取り組みを意識してきました。
例えば、「錦鯉」というお酒があるのですが、国内外で約30のデザイン賞を受賞し、また、デザインだけでなく、酒質もインターナショナルチャレンジという世界的な品評会でシルバーメダルをいただくお酒です。
ただ、こうしたお酒もその受賞歴を使って売るのではなく、この商品の背景をお伝えしてから売るようにしました。

今代司酒造

そもそもこのお酒が出来たのも世界に通用する酒を作ることで、蔵人に誇りを持ってほしいと思ったことがきっかけでもあったと聞いています。
そして、酒の美味しさや日本らしさ、新潟らしさを伝えられるコンセプトやデザインを考え、試行錯誤してできたとのことでした。

「錦鯉」をコンセプトとしたこのお酒は水で薄めたお酒を「金魚酒」と揶揄する時代に、薄めずに美味しい酒造りを守り抜いた蔵の歴史を踏まえ、「金魚酒ではなく堂々とした錦鯉酒だ」、と言い伝えられた蔵のブレない姿勢を表現したわけです。表現方法もデザイナーとアイディアを出し合い、手張りで紅白のフィルムを貼ってから焼き上げる独特の手法で瓶を完成させ、錦鯉の形でくり抜いたカートンに入れて販売することにしました。ただし、ようやくアイディアが固まって試作する段階になっても、思った通りのものができなくて、何度も作り直し、開発に2年の月日を費やしたという背景もあります。

今代司酒造

畠中:長い試行錯誤の末にようやく形になったのですね。錦鯉はどのような反応があったのでしょうか。

佐藤:おかげさまで一番人気のあるお酒に成長し、今では全国で最もお引き合いの強いベストセラー商品となりました。こうしたお酒をきっかけにしながら、全国各地への営業活動を続け、担当する全国の酒販店への年間売上は前年比180%を達成し、昨年も130%を超えました。単月では200%を超える月も。
私ができることはこうした想いのある酒をどこまで伝えていけるか。日本酒を語るということは地域を語ること、歴史を語ることに繋がります。ただ単に味を利いてくださいという投げかけではなく、背景そのものをお伝えすることで応援していただき、一緒に取り組んでいただける仲間をつくるイメージで活動しています。

錦鯉をきっかけとして、今代司の日本酒が全国へ、そして世界に出ていったおかげで、営業も製造も誇りを持って、「もっと良いものを」という思いで酒造りに向き合えるようになっているのかもしれません。

新たな市場を創出し、酒蔵の光に

今代司酒造

畠中:最後に、今後挑戦したいことについて教えてください。

佐藤私たちが挑戦しているのは、新しいマーケットの創出です。日本酒ブームと言われることもありますが、今あるのはまだまだ小さな市場にすぎません。その中で他のお蔵さんと競い合っても先はない。酒はいつの時代も、様々な場面で、様々な形で酌み交わされてきました。現代にももっと、新しい楽しみ方があるはずなんです。それを市場化することが、僕たちの存在意義かなと思っています。

例えば、今の食習慣に合わせた日本酒を作ること。従来の日本酒は、居酒屋でおじさんが飲んでいるイメージがありました。僕は好きですけど(笑)、ダサいと感じる方もいた。でも、今はお肉やシーフードに合う、和食にも洋食にも合う日本酒がどんどんできているんです。日本酒はイタリアンでもフレンチでも飲める、「おしゃれ」なものだという認識をもっと広めたいと思っています。「飲んでみたら、美味しいじゃないですか」と気づいてくれる人たちを増やしていきたいですね。

そのために、デザインや情報発信を大事にし、日本酒を手に取る機会を作っていきたいです。デザインでいうと、うちの蔵ではイベントに合わせたオリジナル酒の開発もしているんですよ。最近発売したのがハロウィン酒「あの世司(あのよのつかさ)」。今代司をふざけて「あのよのつかさ」と呼んでいた人がいたことから、ハロウィンに合うだろうとこの名前を付けました。こういったチャレンジを、常に続けていきたいですね。

今代司酒造

ただ一方で、伝統を守ることも重要だと思っています。味の流行り廃りがある中で、これまで受け継がれて来た味や酒造りの技術は、しっかり引き継いでいきたいです。それから、人に喜んでもらえる、人に寄り添う酒造り。蔵のアイデンティティでもあるこの部分だけは、どんなことがあっても守らないといけないと思っています。

もう一つ守りたいのが、やはり米農家です。私の住む近隣の地域では、200あった米農家が60まで減り、専業農家はその中で3軒しかなくなり、状況の厳しさを身をもって実感しています。それによって耕作放棄地が増え、昔ながらの田園風景がなくなりつつある現状があります。

今代司酒造

これに対して、日本酒の売上を増やせば米の需要も増え、米農家を守ることにつながるはずです。タンク一本仕込むにも多くの米を消費します。父のようにより良い米作りをしようと頑張っている農家をアシストしていきたいですね。そして近い将来、自分自身で作った米でも酒造りができるよう挑戦したいです。

日本酒業界は、まだ卸先や価格などの縛りがあり、いきなりこの商習慣を覆すことは難しいと考えています。今あるものを破壊する気はありません。僕たちも周りに助けられ発展して来たので、産業全体を盛り上げたいと考えています。今の日本酒業界に寄り添いながら、面白い挑戦をして共感者を増やしていきたいです。「あの潰れかかった今代司が復活できたんだから、俺たちもやれる」。そう思ってもらえるような光になれたらいいと思っています。

今代司酒造

編集後記

今代司酒造

私自身初めて新潟を訪れました。駅から一番近い酒蔵で、歩くこと15分。家紋が入った暖簾をくぐると、店内にはお酒が綺麗に陳列されており、奥には試飲スペースがありました。毎時間観光客向けの酒造見学があるとのことで、インタビュー中もたくさんの見学客の方々の声が聞こえてきました。
私もインタビュー後に、酒蔵の案内をしてもらいました。一歩蔵の中に入ると、ひんやりした空気と麹の香り、そして長い年月をかけて築き上げてきた歴史を肌で感じることができました。十何個と連なる酒造タンクや昭和時代の看板、酒造りで使用した道具など、時代を感じるものがたくさんありました。それが終わると、10種類以上の純米酒のテイスティングができます。今代司酒造は、日本酒をもっと身近に感じてもらうために、そして五感で楽しく新潟の醸造文化や日本酒の魅力を体験できる場所として新たな歴史を紡いでいることが分かりました。

パンくず

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