松江で出会い三十年
ライバルから同志になった夫婦が歩んだ軌跡

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「瞬間とかじゃない。プロセスですね。ずっと繋がってるから」

二人がかつて共に働いたホテルからも見えていた湖畔に夕暮れが差しかかる頃、向き合ったのは、モルツウェル株式会社の代表取締役・野津積氏と、専務取締役・野津昭子氏。

積氏は大学で統計学を学んだ後に帰郷。昭子氏は島根県内の石材業を営む家に生まれ、短大卒業後にホテルへ就職した。同じ職場でそれぞれ営業職として働くなか距離が縮まり、起業という共通の夢を胸に若くして結婚。ほっかほっか亭のオーナーとして二人三脚で商売を始めた。

生後3か月の長男を背負いフライパンを振り続けた創業期、孤独な老人たちと向き合った配食の現場、ライバルから同志へと変わっていった30年。地方に根を張る経営者の原点として、夫婦の物語を伺った。

平塚 一樹
loconomiQ 編集者 ソウルドアウト株式会社
平塚 一樹 KAZUKI HIRATSUKA

1990年生まれ。宮城県塩竈市出身。福島大学卒。2013年にソウルドアウト株式会社へ新卒入社。成果改善支援室(現:クリエイティブソリューション部)を経て、営業部に異動。新規営業・既存営業、チームマネジメントを経験し、2017年上期 社長賞を受賞。入社時より希望していた仙台営業所の立ち上げを2018年6月に有言実行する。立ち上げ半年で営業所を軌道に乗せ、全国6拠点を束ねるエリアグロウス戦略推進部を立ち上げ、部長に就任。2020年3月より、東京の既存営業部部長を経て、7月よりデジタルマーケティング第一支援本部 本部長に就任。その後、2021年4月より不動産・金融・教育・BtoBの顧客に特化したリードビジネス本部を立ち上げ、本部長と金融部部長を兼任。2022年4月より現職。

目次

    同じ職場で同じ志を持った二人 出会いが導いた起業という決断

    お二人は同じ職場で出会われたと伺いました。どのような場所で、どんな出会いだったのでしょうか。

    (社長)市内のホテルで、2人とも営業職として働いていたのですが、妻が入社してすぐの頃にあった松江城のお花見で、初めて話をしました。

    あの時、父のホテル時代のちょっと変わった話をしたんですよ。普通ならちょっと引くような内容なんですが、そういう感じが全くなかった。妻は「隔たりなく誰とでも話をする人だ」という印象だったみたいですね。

    そもそも、ホテルの仕事って従業員同志の距離も近くて、キャンプに行ったり飲みに行ったりもしていましたし、誰とでもフラットに接していたことが伝わっていたのかな。

    起業という選択肢は、お互い以前から意識されていたのでしょうか。

    (社長)親父の仕事を見ていたから、どこかでやるんだろうと思っていたんです。妻も実家が自営業で、サラリーマンになるイメージはそもそもなかったと言っていて。高校2年の時に姉を訪ねて上京して、満員電車でぐったりしているおじさんたちを見てから、自分でなにかやりたいという思いはずっとあったみたいで。そのあたりの価値観は最初から近かったんだと思います。

    結婚をする前に検討したのはカレーチェーンのオーナーでしたが、妻帯者でないと加盟できないと言われて。結婚してからもしばらく起業先を探して、やがて新聞でほっかほっか亭フランチャイズ加盟店募集の広告を見つけました。すぐに電話をして、3ヶ月後にはオーナーで店舗を持っていました。30年前の春、そこから私たちの経営者人生が始まりました。

    幼子をしょってお店に立ち続けた創業期 二人を支えた原動力

    開業直後はどのような日々でしたか。資金面でも大変だったと伺いました。

    (社長)資金は3000万円を国民金融公庫から調達し、20年返済の大きな借金を抱えてのスタートでした。当時は朝7時から深夜2時まで開店して、二人で厨房に立ち続けました。ほぼずっとお店にいる状態でしたね。

    起業1年後には子どもが生まれましたが、妻は破水する手前くらいまでレジを打っていたし、産んだ5日後には給与計算をしていましたね。お客さんが増えてきて忙しくなると妻に電話して手伝ってもらうのですが、幼子をおんぶしながらフライパンを両手で振る姿を見ると、お客さんがピタッと黙るんです。静かに見守っていただいて、すごく助かったのを覚えています。

    その姿を見てくれていたパートさんが、後から入社してきてくれたこともありました。

    そうした限界まで頑張り続けた結果、転機が訪れたのでしょうか。

    (社長)ある日突然、トイレで血尿が出ました。自覚症状は全然なかったのに、ゾッとして腰が抜けました。原因不明で今も生きてはいるけど、そこらへんからできるだけフライパンを振らないようにし始めました。

    体調を崩したあとも経営は続いていました。もともと複数店舗を抱えていたので、売上が落ちた店に力を入れて立て直すと戻るものの、今度は別の店の方が弱くなってしまう。

    こちらの店を直すとあちらの店が落ちるのを繰り返す、もぐらたたき状態になっていたんです。自分一人の体力や判断力で、複数店舗を全部回し続けるのは無理だと思いました。

    そこから、スタッフ一人ひとりにオーナーシップを持ってもらうにはどうしたらいいかと考え始めたんです。

    配食の現場で見た孤独の現実が 事業の根幹を作った

    ほっかほっか亭から高齢者向けの配食事業に転換された際、現場ではどのような体験をされたのでしょうか。

    ほっかほっか亭の時には、弁当の宅配で訪問し、玄関口を開けてもらうと家のことが全部わかると感じていたんです。赤い靴があれば女の子がいるな、杖が置いてあればおじいさんが住んでいるなとか。家の匂いまで全部伝わってくる。玄関を開けるってすごいことなんです。

    それが高齢者配食になると、さらに深く生活の内側に踏み込んでいくようになります。いわゆるゴミ屋敷も普通にあります。置いて帰る商売ではなくて、上がり込んで冷蔵庫まで持っていかないと、お年寄りはすぐに腐らせてしまう。枕元まで持っていったり、箸を割ってあげたりするくらいのところまでするんですよ。

    超非効率なんだけど、喜んでもらえるように話がしたくてしょうがなくて、捕まって20分くらい話を聞くことになって、次に行けなくなるんです。

    現場で特に印象に残っているエピソードがあれば、聞かせていただけますか。

    松江市内でお弁当をお届けしている一人暮らしのお年寄りに捕まって、息子が大阪から帰ってくると約束したのに帰ってこないという話をずっと聞きました。毎日届けているから元気がなくなっていくのもわかる。

    だんだん弱気になっていって、「わしはもう誰の役にも立てん、早いこと死んでしまいたい」と毎日聞かされる。

    90歳近くまで一生懸命に生きてきて、年取って、家族はあちこちに出て行って、奥さんに先立たれて、一人になって。最後に「早く死んでしまいたい」と言わせているこの状況は、理解し難い現実でした。長く生きてきた人生の最期、もうちょっとなんとかならんかなと。

    お金があるだけでは幸せじゃないし、方法論が何かあるんじゃないかとずっと思っていて。参加意識だったり、ここにいていいという感覚だったり。ご機嫌な瞬間を増やしたらどうかという考えが、ずっと頭の中にあります。

    三十年かけて育った「線路」の関係 ライバルから同志へ

    仕事上の役割分担は、どのように分かれているのでしょうか。

    (専務)外向きは基本的に社長が出ることが多いです。ただ最近は人材育成・障害者雇用・ダイバーシティ推進の分野は私が登壇することが多く、外部から呼ばれる機会も増えています。

    社長自身は「ロジカルにしゃべるのが苦手だ」と言いますが、目指すところは間違っていないし、常に挑戦する姿勢はリスペクトしています。社長はこう見えて「石橋をたたいて渡る」タイプなので、叩きすぎて橋を壊してしまわないように、「大丈夫、行こう!」というのが私の役目です。

    ある大規模なプレゼンで、社長が想定問答集をすべてA3に書いて準備してきたんですが、質問が来てどの回答に当てはまるかがなかなかつながらず、結局私が喋るという場面もありましたね。勢いをつけるのも、断る判断をするのも社長。でも足元を整えるのは私という役割分担になっているように思います。

    最初からパートナーという感覚だったのでしょうか。事業を一緒にやり始めた当初の関係性を教えてください。

    (社長)ずっとライバルだと思っていたんです。ほっかほっか亭から高齢者配食にシフトした段階くらいまで、ライバル関係が続いていた気がします。妻はそう思っていなかったみたいですが。

    できることとできないことがお互いにはっきり見え始めたら、もうお互いさんだよねになっていったんだと思います。妻は高齢者配食のサービス開発・商品開発の根っこをほぼほぼやってきた人で、そこの原体験の方が妻には大きいみたいです。

    俺はほっかほっか亭の原体験が土台で、妻は配食の原体験が土台。それぞれ別の得意な分野を持ち寄っているような感じですね。

    結婚式での印象的なエピソードがあると伺いました。

    (専務)当時の上司に言われたんです。程よい距離で同じ方向を向き、時々向かい合う線路のような関係性が長く続く秘訣だと。

    社長の言っていることは時に大胆に聞こえますが、社会のだいたいの方が共感できる「ふるさと」についての思いが根っこにあるので大丈夫だと思っています。ダイヤを改正したり、方向をちょっと変えたり、車両を新幹線にしたり、鈍行列車にしたり。社内外の状況に合わせて社員と一緒に事業をつくっていくのが、大変な時もありますけど今は一番やりがいもあり楽しいです。その車両に社員やその家族、地域の方々の人生を乗せて走り続けている感覚です。

    ちなみに先日、目指す組織像を問う診断を別々に受けたら、チャート上で二人の結果がほぼ同じ位置を示したんですよ。何も相談していないのに、すごく広いチャートの中で同じ場所だった。他のみんなが安定した場所を選ぶ中で、二人だけ近い感性を持っていて、笑いましたよ。

    喋りこそしないですけど、目が合ったら微笑み合う。30年酸いも甘いも一緒に経験して、皆さんに支えてもらってやっとこんな感じになれましたね。

    「出雲人」の気質が染み込んだ職場 従業員が見た二人の姿

    従業員の方々から見て、お二人はどのような存在として映っているのでしょうか。

    (専務)「喧嘩しないでくださいね」と若い女性社員に言われたこともあって、見守られているような感じはありますよ。「また揉めてる」「また仲直りしてる」みたいな感じで。私たちにとっては、ただセッションしているだけなんですが(笑)

    (社長)うちの社員の雰囲気は、あんまり燃えているように見えないかもしれない。でも島根の出雲人はプライドが高い。出雲の国は、「いつか見てろよ」と思っている国柄なんですよ。

    うちの社員たちもそんな感じで、大人しいけどちゃんと考えてくれている人が多い。そういう雰囲気が好きですね。

    最後に、一緒にやってきて良かったと感じる瞬間を聞かせていただけますか。

    (専務)瞬間とかじゃなくて、プロセスですね。ずっとつながり続けてきたから、それが積み重なっているんだと思います。モルツウェルのパーパスを考える時、たどりついた答えは「ふるさと守り」でした。

    何もわからない私たちを経営者に育ててくれたのは、ふるさと島根の町にほかなりません。
    この地域の子どもたちが大人になって帰ってくる場所が、「また明日から頑張ろ」と思える、健やかで安らいだ場所であり続けるために、一企業として全力を尽くしたい。                        
    そう思える自分になれたのも、社長と仕事をしてきたプロセスがあったからだと思います。

    創業期、薄暮の島根半島で子どもを連れて夕食を届ける私に、「がんばって」と笑顔で声をかけてくれた高齢のお客様や、試行錯誤しながら一緒に事業をつくってきてくださった取引先の皆様、そして今も日々チャレンジを続けてくれている社員やその家族のためにも。

    体の栄養は食事と運動、心の栄養はそれぞれの安らぎの場所「ふるさと」。それぞれの「ふるさと」を守り続けられるように、この先も社長や社員とともに頑張りたいと思います。

    (社長)本当に偉いよね、うちの嫁さん。大枠間違っていない。一緒にやってきて良かったし、ありがとうございますという気持ちです。妻は「社長こそ偉い」と言ってくれますが、俺の方こそです。

    これからの30年も、二人が同じ方向を向いて歩み続けていく姿が目に浮かびます。本日はありがとうございました。

    夫婦で積み重ねてきた現場での経験は、モルツウェルの配食事業や人材活用の考え方にもつながっています。A面では、「弱い人を見捨てない」と「稼ぐ」を両立させる同社の事業戦略に迫ります。

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