地域で事業をつくり、地域の未来を変えようと挑み続けるSHONAI代表の山中大介氏。その原動力は、どこから生まれているのか。
幼少期を過ごしたヨーロッパでの差別、帰国後に味わった人生最大の挫折、身体的なコンプレックス、そして大企業を離れ、山形庄内へ移住するという決断。
山中氏は、環境が変わるたびに、自分なりの生き方を探してきた。何者でもない自分は、どこで勝てるのか。どうすれば、自分の人生を前に進められるのか。その問い続ける姿勢が、今の経営者としての強さにつながっている。
B面では、山中氏の人生の歩みをたどりながら、父として娘たちに見せたい生き様、家族の支え、そして「地域は憎くて憎くて愛おしい」と語る地域へのまなざしに迫る。
1984年札幌市生まれ。2007年オプト入社、ソウルドアウト創業に参画。営業責任者として中小・ベンチャー支援の拡大を牽引。事業成長ならびに上場に貢献した後、CRO、マーケティングカンパニープレジデントを経て、2024年より専務取締役COO。現在は「ローカル&AIファースト」構想を掲げ、全国拠点展開とデジタル活用を通じた地域企業の事業成長支援を推進。2026年4月、代表取締役社長CEOに就任。あわせて、博報堂DYホールディングス執行役員に就任。
目次
差別を実力で乗り越えたヨーロッパ時代
B面の場所に「おかみの手料理 夕顔」を選ばれました、山中さんにとって、ここはどのような場所なのでしょうか。
「夕顔」は、僕にとって大切な人が庄内にやってきたときに、まず案内する場所です。庄内にあるおいしいものや、人のあたたかさが詰まっているお店なんですよね。
庄内は、山の幸も海の幸も本当に豊かで、米も野菜も魚もおいしいですし、季節ごとに食べるものが変わっていきます。夕顔では、そうした庄内ならではの食材や郷土料理を味わうことができるんです。
今日、夕食にいただいた岩牡蠣もまさにそうです。一般に牡蠣といえば冬に食べる真牡蠣のイメージが強いかもしれませんが、庄内では、夏に旬を迎える岩牡蠣を味わう文化が古くから根づいています。
僕はもともと、牡蠣を食べるとお腹を壊してしまうことが多くて、あまり得意ではありませんでした。でも庄内に来て、天然の岩牡蠣を食べたときに「これはおいしい」と感動しましたね。
庄内の岩牡蠣は、鳥海山からの雪解け水が海へ流れ込み、その豊かな栄養を受けて育つので、濃厚でクリーミーな味わいが特徴です。ちょうどこれから旬を迎える時期で、もう少しするとさらに大きく、味ものってきます。そんな季節の移ろいを、料理を通じて感じられるのも庄内らしさだと思います。
そして「夕顔」で食事をしたあと、スナック「こもれび」に行くのが、だいたいお決まりのコースです。
「こもれび」はどのような場所なのでしょうか。
「こもれび」は僕たちSHONAIが運営するスナックです。
もともとは、長年この地域で愛されてきたスナックで、SHONAIにとっても創業当初からすごく大切な場所でした。社員や地域の方々、事業に関わってくださる方々が自然と集まり、いろいろな話をしてきた場所でもあります。
ただ、オーナーの引退に伴って閉店することになり。僕たちにとっても、地域にとっても大切な場所だったので、この火を絶やしたくないという思いから、SHONAIで運営を引き継ぐことにしました。今はまず、SHONAIグループの従業員同士の交流を促進する場として活用しながら、今後どのような形で地域に開いていけるかを探っているところです。
社員合宿や会社総会のあとには、ここに集まり、お酒を飲みながら皆で『栄光の架橋』を大合唱して、一日を締めくくります。熱くて真面目な話もすれば、くだらない話もする。肩の力を抜いて、同じ時間を過ごせる大切な場所ですね。
それでは、山中さんの「B面」に迫っていきたいと思います。まず、生まれ育った環境から聞かせてください。
僕は、両家にとって最初の孫だったこともあり、いわゆるお坊ちゃんとして育てられました。祖母からも相当かわいがられていて、まだ離乳食を食べているような頃から、毎回のように鯛のお頭が食卓に並んでいたそうです。裕福で、何一つ不自由のない家庭でしたね。
そうした環境から、お父さまのお仕事の関係でヨーロッパへ渡られたのですね。山中さんにとって、現地での生活はどのような経験だったのでしょうか。
当時のヨーロッパでは、アジア人に対する酷い差別がありました。子どもながらに「どうして日本人だからという理由で、こんな扱いを受けるんだろう」と感じることもありましたね。
一方で僕は、幼い頃からサッカーに打ち込んでいました。ヨーロッパでは、サッカーがうまい人間は一目置かれるんです。うまくなれば認めてもらえる。そう思って、反骨心の塊のような状態でサッカーに向き合っていました。当時の僕にとって、サッカーは自分の居場所をつくるための手段であり、拠り所でもありましたね。
アムステルダム・フットボールクラブ、通称AFCという地元の名門アマチュアチームからスカウトを受けて入団。さらに、オランダの名門サッカークラブ「アヤックス・アムステルダム」の下部組織にもスカウトされました。
サッカーが上達し、実力を認められることで、少しずつ周囲の見方も変わっていったように思います。
正直、今でも海外の相手とビジネスをするときには、すごく気合いが入ります。「絶対に舐められたくない」という気持ちになるんですよね。
人生最大の挫折と、コンプレックスの克服
帰国後、中学校時代はどのような時間を過ごされたのでしょうか。
中学校時代は、僕の人生の中でも一番大きな挫折を味わった時期でした。
僕は成長期が来るのが遅くて、高校入学前の身長が148センチしかなかったんです。小学校の頃には、2つ下の妹にも身長を抜かされていました。今は178センチあるので、そこから30センチほど伸びたのですが、思春期の中学校時代にはまだ体が小さかったんですよね。
身体的な違いにコンプレックスを感じていましたし、周囲にからかわれることもありました。
小学校時代までは、サッカーでスター選手のように活躍していました。ですが、帰国して地元の有名なサッカーチームに入ってからは、体格面で本当に苦しみましたね。どれだけ技術があっても、体格が足りない。中学2年生、3年生になるにつれて、徐々に厳しくなっていきました。
「生きるための拠り所でもあるサッカーがだめなら、勉強するしかない」。そう思って、サッカーはいったん横に置いて、勉強しようと気持ちを切り替えました。
そこから勉強モードに切り替えて、慶應義塾高等学校に進学することができました。
成長期がもう少し早く来ていたら、山中さんの人生は違う方向に進んでいたかもしれませんね。
そう思います。普通に成長期が来ていたら、今頃サッカーのプロ選手になっていたのではないかと思うことはあります。少なくとも、Jリーガーにはなっていたのではないかと。それくらい、当時の自分のサッカーの実力には自信がありました。
ただ、サッカーでプロになることを諦めたことが、結果的には大きな転換点になりました。次に生きていく手段として、勉強を選んだんです。
その後、高校では、サッカーを続けられていたのでしょうか。
はい。高校でもサッカーは続けていて、3年間のうちに都選抜のメンバーにも選ばれました。
当時はそれなりに活躍していたので、大学入学前の3月頃、サッカー部のメンバー数人と一緒に、大学のサッカー部の練習に呼ばれたんです。ただ、そこで監督やヘッドコーチからの対応が、明らかにほかのメンバーとは違っていました。
高校時代に身長は30センチほど伸びて、178センチくらいにはなっていましたが、体はまだかなり細かったんです。「大学サッカーをするには体が細すぎる。1年間は筋トレだけをしたほうがいい」と言われて。とても悔しかったですね。本当に細くて、強いコンプレックスを抱えていました。
サッカーの実力だけでは超えられない壁があったのですね。大学ではアメリカンフットボール(アメフト)を始められたと伺っています。
高校時代に、アメフト部の人たちと揉める出来事がありました。そのときに、体の大きさや強さの差を目の当たりにして、正直、怖さも感じたんです。でも同時に、「細い自分のままで人生を終えるのは嫌だ」と思ったんですよね。
大学4年間で何のスポーツに打ち込むかを考えたときに、あえてコンタクトスポーツをやろうと思いました。それがアメフトでした。
父は、一橋大学で廃部になっていたアメフト部を立て直した人でもあります。僕がアメフトをやると言ったときは、かなり反対されましたね。「その体では絶対に無理だ」と。でも、それでもやると決めました。
結果的に、僕は大学2年生で日本代表に選ばれるまでになりました。
サッカーから転身されて日本代表にまでなられたんですね。細かった体を、どのように鍛えていったのでしょうか。
1日5食に増やしました。とにかく食べて、筋肉をつけて、体重を75キロぐらいまで増やしていったんです。
体が変わっていくと、パフォーマンスも大きく変わりました。100メートル走では10秒台を出せるようになりましたし、ベンチプレスも135キロまで上げられるようになりました。
それでも周りからは「アメフト界のバンビ」と言われるくらい、まだ細かったんですよね。選手名鑑を眺めては、自分より細い選手を探していました。
ですが、細くても、筋肉の質はすごく良くて。食べて、鍛えて、体が変わっていく。それを実感するたびに、自分の中にあったコンプレックスが少しずつ消えていくのがわかりました。
ご自身の努力で、身体的なコンプレックスを克服されていった、と。
そうですね。大学でアメフトに打ち込むなかで、体格差は絶対的なものではないとわかりました。
アメフトで相手にぶつかるときの強さには、体の重さだけではなく、スピードも大きく関わります。僕は100メートルを10秒台で走れるようになっていたので、体重がある相手に対しても、スピードで上回ることができました。
たとえば、相手の体重が自分より20キロ重かったとしても、相手が一瞬後ろに重心をかけたタイミングを狙えば倒すことができる、とか。そういった経験を重ねるうちに、体格差があっても「どうにかなる」という感覚が生まれていきました。
それまでずっと「体が細い」というコンプレックスがありましたが、アメフトを通じて、自分の身体で戦える感覚を得ることができました。自分のもっているスピードや感覚を使えば、戦い方はあるのだ、と。もともと低かった自己肯定感も、そこで大きく変わったんだと思います。
「何者でもない」自分が見つけてきた生き方
スポーツの経験は、今のビジネスにもつながっていると感じますか。
確実につながっていますね。少し乱暴な言い方かもしれませんが、ビジネスは最終的には「体力」だと思うんです。
スポーツをやっていて一番良かったのは、正直「あれより肉体的にきついことはない」と思える経験ができたことです。精神的な部分は、気持ちのもちようやコントロールでどうにかできる部分もある。ですが、体力だけはごまかせないじゃないですか。
限界まで体を使った経験をしてきたことは、今の自分にとってもすごく大きいと思っています。
体力面での限界を経験しているからこそ、ビジネスでの厳しさにも耐えられるということですね。アメフトでは、どのようなプレースタイルがご自身に合っていたのでしょうか。
僕はディフェンスでした。
アメフトは、攻撃側であるオフェンスが事前に設計されたプレーを実行し、守備側であるディフェンスがそれを崩し、止めにいくスポーツです。
オフェンスは、誰がどのコースを走るのか、誰が誰をブロックするのかといった役割が細かく決められています。そしてアメフトのプレーは、理論上はすべてのプレーがタッチダウンにつながるように設計されているんです。
ですが実際にそうならないのは、どこかでディフェンス側の力が上回るからなんですよね。相手の想定したプレーを止める。バランスを崩す。設計された通りに進むはずのものを壊していく。それがディフェンスの役割でもあります。
僕は、決められたルート通りに走るよりも、その場で判断して動けるディフェンスのほうが合っていました。フィジカルを使って、野性的にプレーする感覚が自分には合っていたんです。
少し極端な言い方をすると、オフェンスはどちらかというと「サラリーマン」で、ディフェンスは「獣」に近い感覚でしたね。
サッカー、勉強、アメフト……、様々な環境において、ご自身の努力で「生き方」や「前に進む方法」を見つけてこられたのですね。
僕自身の生存戦略だったんだと思います。コンプレックスから立ち直るための方法を、いつも探してきました。
僕は、自分のことを「何者でもない」と思っているところがあります。小学校時代には人種差別を受け、中学校時代には身体的な違いでからかわれる経験もしました。サッカーだけが自分の拠り所だった時期もあります。
高校では身長が30センチ伸びて、少しずつ状況は変わっていきました。ですが、やはり中学校くらいまでの経験の影響は大きかったと思います。
環境が変わるたびに、自分がどこで勝てるのか、自分なりの突破口を探してきました。その積み重ねが、今の自分の戦い方につながっているのかもしれません。
東京から山形へ。父親として娘に誇れる生き様を選ぶ
新卒で三井不動産に入社されています。就職先はどのように選ばれたのでしょうか。
もともと、母方のおじが広告業界で働いていて、その仕事がおもしろそうだなと興味をもったんです。ただ、よく考えてみると「おじがいるからおもしろそうに見えていただけかもしれない」と気づいたんですよね。自分が本当にやりたいことは、広告業ではないのかもしれない、と。
一方で、僕自身は、とにかく大きなことをやりたいという思いがありました。就職活動では、商社やディベロッパーなど、スケールの大きな仕事ができそうな会社を中心に探していました。
また、「最初に内定をくれた会社に行こう」と自分のなかで決めていたんです。結果的に、最も早いタイミングで内定をいただいたのが三井不動産だったので、入社を決めました。
「大きなことがやりたい」という思いで入社され、三井不動産では、大きなお金を動かすお仕事をされていたのでしょうか。
そうですね。200億円の土地を買って、400億円の建物をつくるような、非常にスケールの大きな案件を扱っていました。金額の大きさもあって、仕事の進め方も豪快だったと思います。
数百億円規模の案件を動かすためには、地権者や関係者との関係づくりも重要でした。夜は飲みながらお客さんと向き合い、翌朝8時台にはお礼のメールを送る。そういうことが美徳とされるような環境、時代でもありました。
そうした大きな仕事を任される環境から一転、山形へ移住し、ベンチャーに転職するという大きなキャリアの転換点を迎えられます。どのような心の変化があったのでしょうか。
三井不動産では、本当に大きな仕事をさせてもらいました。仕事としてはおもしろかったですし、すごく恵まれた環境でしたね。
でも、その頃、僕には2歳になる長女がいました。仕事に打ち込み、ほとんど家にいない自分は、父親として子どもに胸を張れる生き方ができているのだろうか。そう考えるようになったんです。親にできることは、結局、「どう生きるか」を見せることだけだと思いました。
僕は子どもに、「社会はもっと自由なんだ」「こんな人間でも社会でやっていけるんだ」ということを見せたかった。会社を辞めて山形のベンチャー企業に行き、そこでちゃんと事業をつくることができれば、その生き様を見せることが子どもにとって一番の教育になるのではないか。
娘に「誇れるパパになろう」と決めて、山形への移住を決めました。
娘さんにできることは、生き様を見せること。生き様を見てほしいと思える姿を求めて、山形に移住され、ベンチャー企業への転職を決意されたんですね。そもそも、どうして縁もゆかりもない山形だったのでしょうか。
「地方だから」というよりも、純粋に転職先のSpiberのテクノロジーに惚れ込んだことが始まりでした。
三井不動産を辞めると決めたとき、知り合いのご縁で三つのオファーをいただきました。そのうち二つは東京のベンチャー企業で、残り一つが山形県庄内地方に本社を置くSpiberでした。
そのなかで、Spiberという会社自体、めちゃくちゃおもしろそうだと思ったんです。それに僕自身、それまで地方に住んだ経験が一度もなかったので、地方で暮らしてみたいという気持ちもありました。
はじめて庄内に来たとき、空気が綺麗で、子どもの教育にも良さそうだなと感じたことを覚えています。
最初から「地方でやってやるぞ」と意気込んで来たわけではありません。たまたま惚れ込んだ事業が地方にあって、自分自身も地方で暮らしてみたかった。それが、ここへ来たきっかけです。
家族の支えがあってこその新しい場所での挑戦
ベンチャー企業への転職や山形への移住に対して、奥様の反対はなかったのでしょうか。
当然、驚いていましたし、反対もありました。ただ、僕は結婚するときから、ずっと三井不動産にいるつもりはないという話はしていたんです。妻もそのことはわかっていたので、最終的には受け入れてくれましたね。
大企業から地方のベンチャー企業へ転職するとなると、生活面でも大きな変化があったのではないでしょうか。
大変でした。最初の半年くらいは、本当にきつかったですね。
収入は大きく下がりました。三井不動産にいた頃と比べると、ざっくり3分の1くらいになった感覚です。家族にはちゃんと食べさせなければいけないので、自分の昼食をかなり切り詰めていた時期もありました。
東京で働いていた頃とは、生活が一気に変わりました。妻は僕の1か月後に東京から移住してきて、一緒に暮らし始めました。家賃の安い一軒家を借りることができたので、なんとかやっていけたという感じです。
奥様は、どのような存在なのでしょうか。
妻は、僕の人生にとってすごく大切な存在です。
中学1年生のときの初恋の相手で、実は8回告白して、8回目でようやく付き合うことになりました。中学のときに3回、高校のときに2回、大学に入ってからも思いを伝えて。最終的に大学3年生のときに付き合うことになり、24歳で結婚しました。
僕としては、妻以外の女性と結婚することは絶対にないと心に決めていたんです。7回振られたら、普通は諦めると思うんですけどね。でも僕は、絶対にいけると思って、想いを伝え続けました。
山形への移住も、当然簡単な決断ではなかったと思います。それでも、最終的には応援してくれた。僕が新しい場所で挑戦するうえで、妻の存在は本当に大きいですね。
娘さんに生き様を見てもらいたい、との思いで山形に移住されました。父親としての教育方針はおもちですか。
本当にないんですよ。
僕は、「親であること」と「教育者であること」は、まったく違うと思っています。そもそも、親は教育者にはなれないとも思っているんです。
教育者は、ある意味で自分を棚に上げなければいけない。ですが、親は、自分の子どものことがわかりすぎてしまうじゃないですか。「このままだと将来こういう失敗をするぞ」と、どうしても感情が入ってしまう。僕もまだやってしまうのですが、子どもと話していると、ついヒートアップしてしまうことがあります。
本来、教育は「斜めの関係」が担うものだと思っています。だから親はシンプルに子どもを愛すればいい。子どもにとっての「ライフライン」であればいい。基本的には、そう考えています。
愛しているということがベースにあって、ふとした会話の中でその愛情が伝わると、子どもの側にも心理的安全性が生まれる。そうすると、いろいろなことを話してくれるようになるんです。もちろん、理想と現実にはギャップもあって、たまにヒートアップしてしまうこともありますが。
日々の子育てについては、奥様の存在も大きいのでしょうか。
そうですね。子育てについては、基本的に妻の方針に任せています。
妻には妻の教育方針があって、自分のペースで育てたいという思いがある。食育を大事にしていて、和食を中心にしたり、思春期の体の変化に寄り添ったりすることも大切にしています。
僕自身は、子どもにいろいろな経験をさせたいという思いもあります。ただ、子育ての前に、まず妻を大事にしたい。だから、妻の考えを尊重しています。
お仕事も忙しいなかで、お子さんとの時間を取るのは簡単ではないですよね。
なかなか確保できずにいますね……。夜に家に帰ると子どもたちはもう寝ていて、翌朝一番早い飛行機で出張へ行くこともよくあります。みんなが起きる前に家を出ている、そんな感じなんですよね。
ご家族で支え合う体制もあるのでしょうか。
今は、妻の実家の近くに住んでいます。
妻の実家が会社を経営していて、事務所も近くにあります。妻の弟夫婦、妹夫婦、会社の社員、おじいちゃんおばあちゃんも近くにいて、徒歩圏内にネットワークがあるんです。村みんなで育てているような感覚ですね。
僕は仕事で家を空けることも多いですが、家族の支えがあるからこそ、挑戦を続けられているのだと思います。
地域は「憎くて憎くて愛おしい」
実際に移住されてから12年が経ちました。地域への思いは変化しましたか。
最終的にたどり着いたのは「地域は憎くて憎くて愛おしい」という感情です。
「地方はキラキラしていて、都市部はドロドロしている」というイメージを抱く人もいると思うのですが、それはすべて幻想。実際には、地方のほうが人間関係や利害が濃くて、複雑な面もあるんです。
都市部から地方にやって来た人は、はじめは「来てくれてありがとう」「すごいね」と歓迎される。ですが、だんだんと期待される役割が増えていき、気づけば、本人の意思とは別のところで、能力や時間を求められて、しんどくなってしまう人も少なくありません。
そこからさらに一歩踏み込んで、自分の意思で何かを変えようとすると、地域との本格的な摩擦が生まれていきます。
その摩擦を避けるのではなく、徹底して向き合いながら突き抜けていく。そうすると、少しずつ周囲の見方も変わっていきます。
結果として、僕らが突き抜けていくことで、地域との関係性も変わっていく。地方で何かを成し遂げるには、そういう方程式があるのだと思います。
山中さん自身も、そうした経験をされたのでしょうか。
ありましたね。最初は、三井不動産にいたというだけで、ちやほやされるところもありました。
大体みんなそうだと思います。たとえば地域おこし協力隊でも、最初のうちは「地域のみんなが自分を求めてくれている」という感覚になることがある。でもそれは、ある意味で「都合のいい存在」として求められている面もあるんです。
ですが、何か物事を進めようとした瞬間に、歓迎されていた立場から、少しずつ見られ方が変わっていくんですよね。
僕も最初は、地域の困りごとを解決するアドバイザーのような立ち位置でしたが、本当に一歩踏み込むとなったときに、周囲からは「本当にこれをやるのか」「お金はどうするのか」という反応もありました。表向きには「やろう」となっていても、内心では温度差があったんです。
都合のいい人から外れて、自主的に動けば動くほど、地域との溝は深まっていきます。その溝は、基本的に簡単には埋まらないものだと思っています。
都市部から来た人間が、新しいことを始めようとする。すると、地域の中にはそれを前向きに受け止める人もいれば、自分たちのこれまでを否定されたように感じてしまう人もいる。
だから、抵抗が生まれるんです。
ですが、その溝をすべて埋めに行こうとしても、難しい場合があります。全員に理解してもらおうとしすぎると、前に進めなくなってしまう。だから僕は、変わる意思のない人に対しては、無理に向き合い続けなくてもいいと思っています。
溝を埋めないまま、行動を起こすにはどうすればいいのでしょうか。
全員に理解してもらおうとしないことです。
新しいことをやろうとすると、最初は理解されないことも多い。ですが、地域のなかには必ず、応援してくれる3%の人がいます。
地域で既に成果を出している企業や経営者は、少なからず地域の中で摩擦を経験し、それを乗り越えてきた人たちなんです。だから、新しいことに挑戦しようとしている人の苦しさもわかるし、応援してくれる。
まずは、そういう人たちとだけやればいいと思っています。最初から97%の人に理解してもらおうとするのではなく、3%の本気の人たちと成果を出す。
実は、その人たちのほうが地域の中で資産やネットワークをもっていることも多いんです。だから、その人たちと組むことが、結果的に地域を動かす近道になるんですよね。
その3%の人たちと成果を出すと、地域の空気は変わっていくのでしょうか。
地域の空気が変わるきっかけは、大きく二つあると思っています。
一つは、成果が形になることです。最初は、こちらが何をやろうとしているのか、地域の人たちには理解しにくい。ですが、実際にものができると、「こういうことだったのか」とわかるようになる。そこから共感の輪が広がっていくんです。
もう一つは、外からの評価です。地方というか、日本人そのものが、どこかで「ペリー来航」を待っているところがあると思っています。内側から説明されるよりも、外から評価されることで、急に見方が変わることがあるんです。
例えば、スイデンテラスのようなホテルができる。鶴岡市に住んでいる人が、友人から「雑誌で見たけど、鶴岡にすごくかっこいいホテルができているらしいね」と言われる。そうすると、今まで反対していた人たちの「怒り」が急に「誇り」に変わるんです。
外の人たちから評価されることで、地域の人たちの見方が変わっていくんですよね。
地方は課題の塊であり、ポテンシャルの塊である
地方に関わる人たちは、今後も増えていくと思いますか。
僕は、増え続けると思います。
根本的に、人間は今の世の中に飽きてきていると思うんですよね。かつては、「お金を稼ぐ」というキーワードがダイレクトに社会を豊かにしてきました。車がある、家電がある、暮らしが便利になる。資本主義の成長が、そのまま生活の豊かさにつながっていた時代だったと思います。
ですが今は、安心安全がすべて満たされている。お金を稼ぐことと、クオリティ・オブ・ライフの向上が必ずしも一致しなくなってきています。
事業をつくる側も、サービスを受ける側も、そこに違和感をもちはじめているのではないでしょうか。人間は本来、自分がやっていることと、暮らしの豊かさや社会の良さがつながっている感覚を求めているのだと思うんです。
地方には、都市部では見えにくくなった課題がまだはっきり残っています。その課題に向き合うことが、事業にもなるし、暮らしの豊かさにもつながっていく。だからこそ、地方に関わる人は増えていくと思っています。
都市部と地方では、事業を伸ばすうえで何が違うのでしょうか。
都市部で事業を伸ばしていく場合、どうしても成熟した市場のなかで、隙間を縫っていく戦い方になりやすいと思います。すでに多くのサービスがあり、そのなかでどう差別化して売っていくのかを考えなければならない。
ですが、地方は課題の塊です。そして課題というのは、ポテンシャルの塊でもあるんです。
地方には、世界に売れるポテンシャルがある。必要なのは、そのポテンシャルの塊に対して、どう事業に変えていくのか、どう売っていくのかという「How」を渡すことです。そこを提供できれば、地方の企業はもっと伸びる。伸びしろはものすごく大きいと思っていますし、そこに気づきはじめている人たちも増えていると思います。
僕たち自身も、100億シンクタンクを含めて、その可能性に気づいてもらうための取り組みを進めていきます。「都市部から地方へ」という市場は、これからすごく大きくなっていくでしょう。
人口減少が進むなかで、地方の産業を大きくしていくことには、どのような意味があるのでしょうか。
人口減少を止めるため、というより、人口が減っても成立する地域経済をどうつくるか。その視点が大事だと思っています。
日本全体の人口は減り続けています。地方の産業が大きくなったとしても、それがそのまま地域の人口維持や人口増加に直結するわけではありません。もちろん、抗っていくことはできます。ですが、大きな人口減少の流れそのものを一気に変えるのは難しい。
ただ、人口の絶対量が増えるということではなく、小さな規模の地域でも成り立つ事業や、地域に根ざしながら外に売っていける事業は増えていくはずです。そうした事業が増えれば、人口減少のなかでも地域に経済の循環を生み出すことはできると思っています。
最後に、地方で新しい挑戦を続ける若い経営者に伝えたいことはありますか。
思い切りですね。
地方で新しいことを始めようとすると、合意形成に時間がかかることもありますし、すぐには理解されないこともあります。それでも、まずは自分がリスクを取って、一歩踏み出すしかないんです。
思い切って動くことで、空気が変わり、応援してくれる人も増えていきます。僕自身、そうやって進んできました。地方で挑戦する経営者には、その一歩を恐れずに踏み出してほしいと思います。
差別やコンプレックス、挫折を経験してきたからこそ、環境が変わるたびに、自分なりの勝ち筋を探し続けてきた山中さん。その生き方は、父としての覚悟、地域への向き合い方、そして現在の経営者としての突破力にもつながっているように感じました。
SHONAIがこれから地域にどのような未来をつくっていくのか。これからの挑戦にも注目しています。本日はありがとうございました。
北川 共史 TOMOFUMI KITAGAWA
編集後記
山中氏の話を伺って印象的だったのは、東京から地域へ飛び込み、いくつもの大きな壁を越えながら、それでも地域を本気で変えようとする覚悟でした。地方は可能性に満ちている。しかし同時に、人間関係や利害が濃く、簡単には動かない複雑さもある。「地方は憎くて憎くて愛おしい」という言葉には、その両方を見つめながら地域に向き合い続ける山中氏の姿勢が表れているように感じました。
地域課題を事業に変え、稼ぐ力をつくり、次世代へ投資していく。そして「100億企業1000社」という構想のもと、地域企業の意識や視座を引き上げていく。SHONAIの挑戦は、地域課題を起点に、地域の可能性を持続可能な事業へと変えていく経営の実践です。
その構想の一端を、私たちソウルドアウトグループも「100億シンクタンク」という形でともに担っています。山中氏のリアルな軌跡と圧倒的な熱量に触れ、地域にある大きな可能性、そしてその可能性を事業の力で引き出すことこそ、私たちが果たすべき役割だと再認識しました。
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