「家族を守る」を原点に、異境で磨かれた
三島の経営者が語る「受け容れる力」

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「小学校に上がる直前のある夜、遅く帰ってきた母親の様子が、子供心にもただごとではなかった」 その夜から「母を守らなきゃ」と心に決めた少年は現在、静岡県三島市を拠点に地域を動かす経営者になっている。加和太建設株式会社代表取締役の河田亮一氏だ。

取材は、「経営者としての自分を育ててくれた」と語るNPO法人の拠点・みしま未来研究所で行われた。高校時代の米国・スイス留学、一橋大学進学、リクルート・大手銀行を経て家業へ。華やかな経歴の裏側には、少年時代の家族への誓いと、海を渡った4年間で掴んだ「人間の本質」があった。

北川 共史
loconomiQ 編集長 ソウルドアウト株式会社
北川 共史 TOMOFUMI KITAGAWA
代表取締役社長CEO

1984年札幌市生まれ。2007年オプト入社、ソウルドアウト創業に参画。営業責任者として中小・ベンチャー支援の拡大を牽引。事業成長ならびに上場に貢献した後、CRO、マーケティングカンパニープレジデントを経て、2024年より専務取締役COO。現在は「ローカル&AIファースト」構想を掲げ、全国拠点展開とデジタル活用を通じた地域企業の事業成長支援を推進。2026年4月、代表取締役社長CEOに就任。あわせて、博報堂DYホールディングス執行役員に就任。

目次

    映画づくりが教えてくれた多様な人と協働する組織の原点

    まず、今日取材させていただいているこの場所は、河田さんにとってどんな場所ですか。

    ここは、まちの人たちと一緒に地域のために活動する拠点です。ここにいる人たちは全員ボランティアとして来ています。自分の会社の社員は自分が採用して給料を払うわけですが、ここにいるのは意思のある人たちが集まって、それぞれの力量の中でまちのために動いている。そんな人たちと一緒に、今も悩み苦しみながら続けている場所です。

    経営者としての自分を、ものすごく育ててもらった場所でもあります。この拠点が生まれる前に、ここのNPOのメンバーと一緒に映画を作っていたんです。7500万円を集めて、2年間かけて2時間の映画を作った。全国の劇場で上映され、海外映画祭に出したりするような作品でしたが、その制作プロセスが本当に大変だった。

    映画制作の過程で何がそんなに大変だったんですか。

    バックグラウンドがまったく異なる200人の人たちと、2年間一緒に動いたことです。主婦の方も、学生も、公務員も、サラリーマンも、全員が映画を作りたいという一点だけで集まっている。

    でも、映画を作りたい理由は全員違いました。出たい人もいれば、見たい人もいれば、学びたい人もいる。それまで地域の経営者たちとまちづくりを進めてきた私にとって、共通言語すら持てないことの苦労は小さくありませんでした。

    「資金集めのために協賛を取りに行こう」と言えば、「自分は映画を作りたいだけなのに、なんで協賛集めをしないといけないのか」と言われる。理事会を作れば、「なぜあの人が理事なの」と問われる。内紛も起きる。自分の会社経営は楽だなと、本気で思いましたね。

    それでも2年間やりきれたのは、ボランティアの200人とたった3つだけルールを約束したからだと思います。「ウェルカム、誰でもいい」「フラット」「前向きに関わる」。 最後にやりきった時の成長の手応えは、会社で何かをやりきった時とはまったく違うものでした。

    映画が完成した後、この場所が生まれたんですね。

    映画を作った後に、100人くらいが「まだ一緒に何かしたい」と残ってくれたんです。

    「最高の出会いと経験をしたのだから、今度はまちのためにできることをやろう」と集まって会議をした時に、「拠点を持とう」という話になった。地域のために何かしたい人の裾野を広げて、やりたいことが形になる機会を作る場所として、みんなで作ったのがここです。

    だからこの場所には、単なる活動拠点以上の重みがあります。

    守ることを決めた少年時代 長男の誓いと母への覚悟

    個人的なことをお聞きしますが、幼い頃に印象的だった出来事はありますか。

    小学校に上がる前に、両親の間で問題が起きました。ある日、夕飯の時間になっても母親が帰ってこなかった。かなり遅くなって帰ってきた時の様子が、子供心にもただごとではなくて。それほど追い詰められていたんだということを、後から知ることになりました。

    その日から、「この人を守らなきゃ」と決めました。父親もどこか居場所を失ったように見えて、家の中には重たい空気が流れ続けていた。弟と妹を守らなきゃ、母親を守らなきゃ、という気持ちで、自分の中で起きていることはほとんど喋れないまま、小中学生の時期を過ごしました。

    そういう環境の中で、どうやって自分を保っていたんでしょう。

    それが、遊びは本当に自由にさせてもらえたんですよ。自分のやりたいことに対して、母親はいつも「すごいね」と肯定してくれた。家の中の緊張感とは別に、外で遊ぶ自由だけはものすごく与えてもらっていた。今思えば、そこが肯定感を育ててくれたのだと思います。

    ただ、中学3年になった頃に限界を感じました。心配させたくないから反抗できないけれど、溜まっていくものがある。このままでは自分が壊れてしまうという感覚が生まれた時に、父親が海外留学という選択肢を提示してくれたんです。それが救いでした。

    人と誠実に向き合う基本は、どこへ行っても変わらない

    高校から留学されたとのことですが、初めての海外生活はどうでしたか。

    日本の環境から飛び出したいという気持ちは強烈にありましたが、正直何もわからないまま飛び込みました。居場所を最初に作ってくれたのはスポーツです。

    アメリカはシーズンごとに競技が変わるので、サッカー、バスケ、ラクロスと全部やった。言葉より先に体で示して受けたリスペクトから関係が開いていく。最初の相部屋がギターを弾く金髪のアメリカ人で、寮生活の洗礼を受けながらも、徐々に交友関係は広がっていきました。

    1年経つと仲良くなった友達ができましたが、新学年になるとポジション争いで離れていくこともあった。日本人の友達がいることがマイナスに映る時期があるんです。それは寂しかったですが、「彼らの論理ではそうなるんだな」と理解しながら待っていると、また戻ってくる。そのサイクルを経て、誰に対しても変わらず同じように接し続けることが本当に大切だと実感しました。

    帰国する頃には、200人くらいが集まり賑やかなパーティーを開いてくれて、それが一番嬉しかった思い出です。

    次はスイスへ移られたんですね。アメリカとはどんな違いがありましたか。

    アメリカでラクロスの推薦を受けて別の高校への転校も選択肢にあったんですが、「せっかくなら全く異なる文化に飛び込みたい」という気持ちが強くなって、ヨーロッパを選びました。図書館でスイスのボーディングスクールを調べ、直感で一校に決めて受験し、合格しました。

    世界各国から集まった生徒が暮らす学校で、毎日スーツが義務、食事にはドレスコードがあり、社交の作法を実践の中で身につけていく環境でした。アラブの実業家の子息やヨーロッパの財閥の御曹司など、アメリカとはまったく異なる顔ぶれです。

    日本の地場ゼネコンの息子としてやってきた私は、最初は文化の違いに戸惑う場面もありました。それでも2年経つと友達ができた。

    どんなバックグラウンドの人間と接しても、誠実に向き合うという基本は変わらない。アメリカで学んだことが、まったく違う世界でも通用するという確信を持って、日本に帰ってきました。

    政治家になりたかった夢は事業を立ち上げる情熱へ

    帰国後、一橋大学に進んでリクルートに就職しますが、そもそも政治家になりたかったとお聞きしました。

    ずっと日本の教育制度を変えたいと思っていて。海外で4年間過ごして、日本の教育の違和感がより明確になったため、どうしたら変えられるかと調べてみると「官僚制度を今よりも良い形にできないか」という考えにたどり着きました。

    そこで、政治家と官僚のどちらがいいかを父に聞いたんです。父からは「お前は政治家の方が向いてるんじゃないか」と言われて、それならまず官僚が多い大学に行って仲間を作ろうと、一橋大学を選びました。

    リクルートに入社した時も、「政治家になる準備のために来た」とずっと言っていました。 教育関連の学校法人向け営業を志望したのも、教育現場を知りたかったからです。でも1〜2年目は本当にダメでした。

    「なぜ広告費をたくさん払った学校ほど紙面が大きいんですか、これでいいんですか」と、みんなの前で上司に食ってかかったこともありましたね。

    3年目で仕事への向き合い方が変わったと聞きました。何があったんですか。

    大阪から来た上司に「一回ちゃんとお客さんに向き合ってみろ」と言われたんです。本当に良いと思う学校に足を運んで、理事長と話して、生徒を見て、卒業生に会う。「こういう人が、こういう人を作るんだ」というものを自分の目で見た時に、初めて自分の仕事に意味を感じられました。

    その後のコーチングも転換点でした。「政治家になりたい?じゃあ月に何冊本を読む?」と問い続けられ、自分で吐いた言葉だから達成しないといけない。経営者の思想に触れるうちに、政治よりも事業をやる方が面白いと感じ始め、リクルートで4年間を過ごした後、大手銀行のシンジケートローン部門に移りました。

    100億円規模の案件で、なぜ今この投資をすべきかというストーリーを事業計画から読み解き、複数の金融機関を回る仕事でした。知識を深めることと、緻密な論理構造を組み立てる力を、ここで磨きました。

    起業して事業を作りたいという気持ちはずっとあって、数年で辞めて家業に戻ることにしました。

    「いいよいいよ」で育んでゆきたい子どもたちの肯定感

    現在の家族構成と、子育てについての考え方をお聞かせください。

    妻との間に4人子供がいます。小学6年生の長女・小学4年生の次女・年長の長男・年中の三女です。子育てについては私が「いいよいいよ」役で、妻が「ルールとしつけ」担当みたいになっています。

    普段お母さんに怒られているようなことも、人に迷惑をかけない範囲であれば私はたいてい許す。雪が降っても外でガンガン遊ばせるとか。

    自分が子供の頃に遊びを自由にさせてもらったことで肯定感が育てられたという実感があるので、同じことを子供たちにもしてあげたい。個性を大事にするということと、人を大切にするということ、この二つだけです。

    あの頃「守らなきゃ」と感じた経験が、今の自分の根っこにあると思っています。大事にしてきた人のことを守り続けようという気持ちは、これからも変わらないと思います。

    「守る」ことを原動力にしてきた河田社長の受け容れる力が、三島のまちをどこまで広げていくか、これからも楽しみでなりません。本日はありがとうございました。

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