東京とは違う価値観で南砺に根を張り
アニメ業界に残したい職人の居場所

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「なぜかわからないけど、田舎が好きなんですよ。」

そう語るのは、株式会社ピーエーワークス代表取締役・堀川憲司氏。 取材場所に紹介されたのは、オフィスに隣接する「桜クリエ」の多目的ホール。作品を題材にしたコラボやワークショップで地域の活性化を図る拠点で、ゆったりとした空気に包まれていた。

小学生の頃から、年賀状に雪国の牧歌的な風景ばかり描いていたという堀川氏。愛知で生まれた彼はなぜここに根を下ろしたのか。その軌跡をたどると、人形劇に夢中になった大学時代、入社2週間で始まった新婚生活、韓国で一人取り残された新人時代と、偶然・覚悟が折り重なった人間の物語に迫った。

北川 共史
loconomiQ 編集長 ソウルドアウト株式会社
北川 共史 TOMOFUMI KITAGAWA
代表取締役社長CEO

1984年札幌市生まれ。2007年オプト入社、ソウルドアウト創業に参画。営業責任者として中小・ベンチャー支援の拡大を牽引。事業成長ならびに上場に貢献した後、CRO、マーケティングカンパニープレジデントを経て、2024年より専務取締役COO。現在は「ローカル&AIファースト」構想を掲げ、全国拠点展開とデジタル活用を通じた地域企業の事業成長支援を推進。2026年4月、代表取締役社長CEOに就任。あわせて、博報堂DYホールディングス執行役員に就任。

目次

    表に出るよりも裏側で全体を動かすことに惹かれていた

    アニメの世界に入ろうと思ったきっかけを教えてください。

    大学時代に、児童文化研究会というサークルに入ったのがきっかけです。 夏休みになると田舎の小学校を回って、人形劇や児童劇を見せるんです。合宿をしながら大道具を作ったり、話を作ったり、ものづくりの全部が面白かったです。

    元々は初めからアニメがやりたかったわけではなくて、何か裏方で物語を作る仕事がしたいなと思っていたんです。舞台でも映画でも何でもよかったんですが、その中で一番仕事にできそうだったのがアニメだったんですよ。

    当時は実写映画の方がはるかに大変な世界で、1980年代後半のアニメはビデオ市場が膨らんで、作家性の強い監督がオリジナル作品を次々と出し始めた時期でした。ジャンルとしての多様性があって、面白いんじゃないかと感じたんです。

    大学は中退されたと伺いましたが、アニメの道を選ぶことに迷いはなかったのでしょうか。

    食えるかどうかもわからない仕事でしたし、東京に出なければ仕事がない。周りもみんな、多分続かないだろうと思っていたと思います。でも僕自身は、この仕事以外に興味があることがなかったんですよね。

    実は絵を描くこと自体はそこそこ好きだったんですが、アニメーターになろうとは思いませんでした。 自分が面白いと感じたのは、誰かが一生懸命作っている舞台を袖から見ていることだったり、人形劇の仕掛けを考えることだったり。作品の前に出るよりも、裏側で全体を動かすことに惹かれていたんだと思います。

    2日分の着替えで韓国に渡りノイローゼ寸前になった1年目

    入社してから最も印象に残っている経験を教えてください。

    入社して1年目のことです。1990年代の当時はデジタルではなかったので、韓国の制作会社にセルや動画を託す流れがあって、「これを届けてこい」と言われて韓国に渡ったところ、「納品するまで帰ってくるな」と。 2日分の着替えしか持っていないし、言葉も通じない環境でそう言われました。

    しかも、その日本の会社自体が経営難で、韓国側に送金がされていなかったため、スタッフが日に日にいなくなっていくんです。韓国語の辞書を引きながら説明したり、タクシーに素材をいっぱい積んで「右」「左」「まっすぐ」だけ韓国語を覚えて撮影に通い詰めました。もうノイローゼ寸前だったと思います。

    それでも納品はやり遂げたということでしょうか。

    なんとか納品はしたんですが、日本に戻ってしばらくしたら会社はなくなっていました。結局入って1年で潰れた会社だったんです。でも、あの頃の経験がなかったら、この仕事は続けられなかっただろうなと思いますよ。

    当時の韓国は、日本の1960年代~70年代のような勢いがあって、学生運動も盛んでした。催涙弾が飛んできて目が痛くて動画が描けないなんてこともありました。 でもアニメに携わっている人たちはみんないい人で、初めての海外で異文化に触れるという経験としても、個人的にはとてもいい時間だったように思います。

    妻の故郷に帰った日から居場所になった南砺市

    富山にいらっしゃったのは、奥様がきっかけだったのでしょうか。

    妻は富山出身の一人っ子で、将来はご両親の近くに戻るという前提がありました。富山大学の児童文化研究会の1年先輩で、僕が入ったときのサークル部長だったんです。1年生の秋ぐらいから交際を始めて。

    東京に出なければ仕事がないと分かっていたので、妻とは将来がないだろうなと思っていたんですが、ついてきてくれると言ってくれて。それで「結婚して子供が小学校に上がるまでは東京でやらせてください。必ず帰ってきます」と約束をしました。

    ちなみに、堀川さんのお父様はどのような反応だったのでしょうか。

    僕は3人兄弟の真ん中で、兄も弟もいたので、父が「うちは3人いるから1人ぐらいあげても大丈夫だよ」と言ったそうです。僕がいないところで結婚が決まっていて、外でバイクのオイル交換をして戻ったら、父から「結婚式が決まったから」と。次男ってそんなもんだよなと思いましたね。

    父はダジャレが好きな人で、愛知で警察官をしていました。体がめちゃくちゃ丈夫で、80歳を過ぎてもフィットネスに通っていて。LINEにいち早く興味を持って、一族全員をグループに入れさせて、自分が発言してリアクションがないと怒るような人でしたね。

    4、5年前に心筋梗塞で突然亡くなりましたが、最後までボケもなく元気でした。死んでから「いい人だったんだな。頑張ってたんだな」と気づくことも多く、父と息子ってそういうものなんだと思います。

    ここにいる喜びは大好きな田舎の風景を作品に記録できること

    南砺市のどこに惹かれているのでしょうか。

    うまく説明できないんですけど、とにかく田舎が好きなんですよ。雪景色も好きで。小学校の頃からなぜか年賀状に、雪国の牧歌的な田舎の絵ばかり描いて送っていた記憶があります。富山大学を受験しに来た時に、ツッパった高校生がみんな長靴を履いていることに衝撃を受けました。愛知では不良の履物はトイレの下駄でしたから、長靴は履きません。

    入学してからは雪の写真を撮りたくて、下駄を履いて番傘を差して歩き回ったりもしていました。こっちに戻ってから東京には毎週出ていますが、駅を歩いているだけで疲れてしまうんですよ。朝、散歩をしてもまず人に会わないような環境の方が、個人的にはストレスがなくて非常にやりやすいです。

    作品にもこの土地の風景が映し出されていますが、意識的に取り入れているのでしょうか。

    意識的というか、日常のなかの「ここを切り取りたい」という感覚に近いですね。アニメーション表現の進化もあって、昔は日本の田舎の風景をアニメにすることは全然求められていなかったんです。

    テレビ局から「背景に漢字が書かれている看板はやめてくれ」と言われた時代もありました。でも日本のアニメが世界中で好かれるようになってからは、むしろ日本の田舎の風景が大好きだという声が増えた。

    面白いのは、僕は愛知から来た人間だから、田んぼの中の風景を見て「これは絵になる」と思うんですが、地元の方は「見慣れた景色すぎてどこがいいかわからない」とおっしゃるんですよね。よそから来ると、その土地の魅力がより強く感じられるんです。

    こんな大好きな風景を作品に記録しておけるんだという喜びが、ここでものづくりを続ける理由の一つになっています。

    釜の飯を共にした経験が人脈に 東京卒業後に帰る居場所になれたら

    「釜の飯を共にする」という経験を大切にされているそうですが、その原点はどこにあるのでしょうか。

    過去、日本でもトップクラスのクリエイターたちと一緒に劇場映画を作ったことがあり、ものすごい苦労を味わいました。でも嫌だと思ったことは一度もない。あの現場で同じ苦労をしながら何かを作り上げた経験が、その後どれだけ助けてもらったかわからないくらい広い人脈になっています。

    だからピーエーワークスを立ち上げたときも、新卒の子たちに「もっと先輩に話しかけてみたら」と言ったんですが、「何を話していいかわからない」と言われて。話せと言ってもダメなら、じゃあ話すきっかけになる機会や環境をどう作るかを考えなければと。そういう試行錯誤の繰り返しですね。

    かつてここを巣立った社員たちとの関係は、今も続いているのでしょうか。

    風の便りに聞くところでは、東京で「辞めた同窓会」みたいなものが定期的に開かれているそうです。ここでちゃんとした制作の基礎を学んだ人たちが集まっているみたいで。

    辞めていった人たちは「あの時教えてもらったことが今役に立っている」と言ってくれます。でもそれって、他に行って比較して初めてわかることなんですよね。

    将来的には、東京を卒業して富山に戻ってくるという選択肢も作りたいと思っています。あと、この業界で長年貢献してきたフリーランスの人たちが60歳を超えてからどう暮らしているのか、実はよくわからないんです。

    描けなくなったらどうするのか。会社に貢献してくれた人たちが、その先の人生もちゃんと暮らしていける仕組みを作ること。それは事業を承継した後の、僕自身のミッションの一つだと考えています。

    本日はありがとうございました。

    堀川氏のこうした考え方は、どのように組織づくりに活かされているのか。
    その具体的な実践については、以下の記事で詳しく紹介しています。

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